私は毎日なにかしらの失敗をしている。
発達障害と失敗は切っても切れない間柄だ。
問題なのは、その失敗した嫌な記憶が忘れられず、長いあいだ引きずってしまうということだ。
悩みグセがある私は、日頃から脳の容量の大半を悩みにつぎ込んでしまっている。
精神的にも不健康だし、嫌な記憶が頭を埋め尽くしているせいで、ほかのことが手付かずになり、時間だけを浪費してしまうので困りものだ。
それをどうにかしたくて、気持ちを切り替えるためのマインドコントロール方法やら、ときには座禅による瞑想なんてものまで試してみたが、どうにもうまくいかない。
そうして最終的に思ったことは。
「忘れようとすることが、そもそも間違っているのではないだろうか?」
ということである。
忘れようとしている時点で、嫌なことを思い浮かべてしまっているわけなのだから、これは、忘れようとする行為自体が間違っていると言える。
そもそも「忘れる」という言葉自体がおかしい!
人が意識して「忘れる」なんて物理的に不可能なのである。。
私たちが普段から使ってる「忘れる」という言葉の正体は、「忘れていた」という状態や結果を表す言葉でしかない。
考えるのを止める方法は「行動すること」
機械であれば、不要な情報を指定して削除することはできる。
しかし、人間の場合は不要な情報を指定してしまえば、逆に記憶が鮮明になってしまう。
「忘れていた」状態になるために、他のことに意識を向けなくてはならない。
じっとしているのはNG!とにかく動け!
嫌な人、嫌な経験、嫌なもの、それらが頭から離れないとき、頭には嫌なことが以外が存在していない世界になっている。
なにもせず考え込んでいる状態というのは、狭い部屋の中に「自分」と「嫌な相手」の二人きりで閉じこもっているようなものだ。
どれだけ無視しようとしても、他に注意を向けるものがないのだから、意識しないようにするなんて不可能だ。
ここで嫌な相手を「忘れていた」状態になるためには、別の誰かを部屋に招くしかない。
そのためには動くしかないのだ。
行動に意識を向けることで、今までくら無視しようとしても気になっていた嫌な相手のことから意識がはなれる。
つまるところ、忘れる過程ということは「見ないようにする」のではなく「別のものを見る」ことで、嫌な記憶だけに向けられて脳のリソースがカットされる。
嫌なことがあった後は、落ち込んで何もやる気になれないものだが、それでも布団の中に潜って悶々と悩んだりしてはいけない。
考えても何もいいことはない。
ともかく何か別のことをしよう。
目指すのは「忘れる」ではなく「忘れていた」である。
失敗した自分を許してやることも大事
人より物覚えが悪い、人より察しが悪い、人より不器用、人より失敗が多い。
何かにつけて上手くいかずに失敗することが多いと「どうして自分はこんな失敗をしてしまうんだ」と自分にうんざりしては、失敗したことをズルズルと引きずってしまいがちだ。
「失敗でくよくよせずに気持ちを切替えよう」なんて口で言うのは簡単だが、私たちのように他人よりもスペック的に劣るような「弱み」のある人間には、それが難しい。
それはどうしてかといえば、自分自身が人よりも劣っている己を許せないからだ。
気持ちを切り替えるといことは「自分を許す」ということに他ならない。
私たちのようなタイプは失敗をしてしまう自分自身が嫌で嫌でたまらないのだ。
だから、失敗した後も「なんであんなことができなかったんだ」「どうしてこうしなかったんだ」と終わったことを悶々と後悔し続けてしまう。
自分の欠点・欠陥を許すという行為
まず私たちは、自分に欠点があること、欠陥があることを認めなければならない。
屈辱的かもしれないが、私たちは自分の不完全さを受け入れなければならないのだ。
自分の欠点や欠陥を認め、その結果を引き起こした自分の行動を許してあげなければならない。
不完全な自分と折り合いをつけて生きる
不完全な自分を認めるということは、諦めるということではない。
完璧を目指すことが向上心を持つということでもない。
仕事で失敗したら、反省はすべきであるが、自分を責める必要はない。
失敗を許したうえで、同じ失敗をしないようにできることをやればいいのだ。
それでもできないときは、それはもうできないこととして片付けてしまってもいいのである。
失敗の嫌な記憶に囚われそうになったときに大切なのは「じっとしないこと」と「自分を許すこと」だと私は思う。
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