発達障害者をやってると、たまに自分の境遇にものすごい不満を感じるときがある。
私たちの発達障害者は自らの意思とは無関係に与えられた理不尽であり、そのせいで苦悩が多い人生を送ることになる。
「どうして自分は普通に生まれなかったのか」
「どうして自分だけがこんな目に合わないといけないんだ」
そんな考えが頭をよぎるけれど、私たちは現実に対してあまりにも無力であり、発達障害から逃れることはできない。
辛い日々を過ごしていると、それならば何もしない方が幸せなんじゃないかと、考えるようになってしまう。
苦しみから解放されたい、理不尽に束縛されない自由が欲しいと望むことが悪いとは思わない。
しかし「苦痛がない」ことと「幸せ」はイコールではないのだ。
過去にうつ病になって仕事を辞めたときは、最初こそ開放感を味わっていられたものの、次第に何もしないでいることに喜びは感じなくなり、やがては無気力感に襲われるようになった。
極度のストレスは精神を削るが、極度の自由は精神を腐らせるということだ。
辛い環境で働いていると「仕事なんて辛いことばかりでもう働きたくない」と精神が衰弱していく。
何もしないというのは、それと同じぐらい精神にとって悪影響を与えるのである。
あれだけ「もういやだ、もう何もしたくないと」思っていたのに、いざそうなってみれば、何もしないことも害になる。
失敗して「もう疲れた」と精神が衰弱しているとは休息が必要だ、しかしそれはあくまでも一時的な処置に留めておかなければならない。
「行動の意思」を捨ててはいけない
私たちには力がない。金もない。発達障害になった時点で運がないのも明白だ。
ないないないの、ないもの尽くしである。
そんな私たちが人並みの成功を望むことは愚かだろう。
だからといって、行動の意思を捨ててはいけない。
どんなに小さな変化だとしても、同じ状態であり続けようとしてはいけない。
無理して辛い仕事をして鬱になれといいたいわけではない。
ただ、精神にとっての負荷というのはある程度必要なのだ。
そして負荷にも良し悪しがあるということだ。
仕事であっても、精神が衰弱するようなストレスを悪い負荷だとすれば、それとは逆に、仕事をすることによって休息と行動のメリハリがもたらされるのは、精神にとっても良い負荷である。
残念なことに、私たちのような発達障害者にとっては、仕事というのは害となる負荷になってしまうことが多いのは事実だろう。
しかし、それでも私たちは行動する意思だけは持ち続けなければならない。
人生を問う自分に応える
私たちがもつべき行動の意思とは、成功や幸せを求めることではない。
もともと、私たちにできることなんて限られているのだ。
普通を目指したところで、それは無い物ねだりというもので、無理なことをしようとすれば悪い負荷によって精神がやられてしまうだろう。
普通の人たちに「それでいいの?」と言われたとしても、そんなものは無視していいのだ。
私たちは他人のために生きているわけでも、他人に幸せにしてもらいたい訳でもない。
私たちが聴くべきは、自分からの問いかけである。
私たちは常に自分自身から「どうするの?」と問われ続けている。
それには応えなくてはならない。
その方法は「やれることをやる」それだけでいいのだ。
世間に認められるようなことをしようとか思う必要はない。
行動の大小、成功や失敗、幸せや不幸。
それは行動の副産物でしかないとうことを忘れてはいけない。
副産物を求める必要はない。
ただ行動する意思を持ち続けること。それだけが重要なのだ。
それさえあれば、私たちの精神は腐らないはずだ。
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