贅沢できないことが不幸なのではなく、他人と比較することが不幸の元なのだ【発達障害メモ】

発達障害は収入が低いから貧乏という考えは間違っている 考えかた

発達障害の人は能力や特性の関係で、普通の人に比べて仕事の選択肢が少なくなる。

朝から晩までバリバリ働いて企業の第一線で活躍するような人材になるというのは難しい

だから収入も普通の人たちに比べれば少なくなってしまうのが実情だ。

そのせいで「普通の人たちよりお金がない自分」という現状に、惨めな気持ちになってしまう人もいるはずである。

かくいう私も、周りの自分より沢山稼いでいる人欲しい物を買って、食べたい物を食べて、豪遊できる人というのを羨んでいた時期があった。

「あの人たちは優雅にランチを楽しんでいるのに自分ときたらスーパーの弁当だよ…」
というような劣等感を抱かせるのだ。

しかし、今になって当時を振り返ってみると、そのときは確かに余裕と言えるほどのお金がなかったが、慎ましく暮らせば生活に困るという程の状況でもなかったのだ。

それなのに、当時の私が貧しさを感じてしまった原因は、他人と比較することで自分の立ち位置を測ろうとしていたこと、そしてなによりお金以外に幸せを計る基準を持っていなかったからである。

国が定義する貧困層の年収というのはデータとしては存在する。
じゃあそこで定められている年収以上ならば、誰もが満足して暮らせているだろうか?

実際はそうではないはずだ。

どれだけ自分が稼いでいようが、周りの人が自分以上に稼いでいれば、相対的に自分を貧乏だと位置付けてしまうだろう。

逆に、収入が少なくとも今の暮らしに満足している人だっている。

経済的な面よりも、他人と自分を比較することでしか、自分を計ることができない精神的な貧しさが自分を不幸な気持ちにさせていたのだ。

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発達障害の人間は身の丈に合った価値観を身につけろ!

「収入が低い」というのは、他人と比較しているから生まれる気持ちである。

それで惨めな気持ちにさせているのは、自分を実際よりも大きく見せたがる「虚栄心」と、自分にないものを持つ人への「嫉妬」である。

  • あの人はあんなに給料をもらっている。
  • あの人はあんなに立派な家に住んでいる。
  • あの人はあんな高級車に乗っている。

自分より物質的に豊かな人を目にすると、羨ましい妬ましいという嫉妬心と、自分が持たざるものだと認められない虚栄心。

この二つのせいで、発達障害だから収入が低いという現実を、否定的な感情でしか捉えることができない。

「あの人は…」「自分は…」とすぐに自分と他人を比較するのは悪い癖である。それではいつまでたっても周りに振り回されて生きることになってしまう。

それではダメなのだ!

高収入だとか低収入だとか、そんなことはどうでもいいのだ。

大切なのは、今の収入でいかに満足できる生活を送るかである。

「お金が無くて友達と遊びにいけないから惨めな気持ちになる…」というのなら、その友人関係は最初からあなたの身の丈には合っていないのだ。そんな関係はとっとと捨ててしまうべきだ。

「周りの人はみんな持ってるのに自分はお金がないから買えなくて辛い…」というのなら、それもあなたの身の丈には合っていないものであり、そんなものを欲しがること自体が間違っているのだ。

発達障害の私たちが、普通の人と同じ金銭的価値観でいたら、いつまでたっても満足なんてできやしないのである。

人と自分比較しても幸せにはなれない

物質的な豊かさだけで自分と他人を比較する、相対的価値観ではいつまでも惨めな気持ちからは抜け出せない。

そういう人は、どれだけ十分なお金があったとしても、周りに自分以上に豊かな人がいれば、周囲と自分を比べてしまい惨めな気持ちになるだろう。

羨ましいという気持ちから逃れることができないのだ。

そこから抜け出すために必要なのは絶対的価値観である。

「人が何をもっているか」ではなく「自分がどう感じるか」だ。

普通の人からすれば「えっ、そんな生活で楽しいの!?」と言われるような生活であっても、自分さえ満足していればそれでいいのである。

私の経験上、価値観の違う人間と関わるぐらいない、そんな繋がりはさっさと捨てて孤独になったほうがよっぽど健康的な生活が送れる。

「友達が沢山いたほうがハッピー」みたいな風潮は、私たち発達障害の人間には適用されないのだ。

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お金は何のために必要か考える

人間にとってお金とはなんなのかを考えると、植物でいうところの水や土である。
つまり、生きるための環境を構成するために必要な要素だ。

水を与えなければ植物は枯れてしまう。
土に栄養がなければ大きく育たない。

お金に困るということは、心が健康に成長する環境が整えられないということになる。
そうなると、やはりお金は人が成長するうえで重要だということを認めないわけにいかない。

しかし、お金が沢山あって、生活の環境さえ整っていれば、人の心は健全に成長できることになるのだろうか?

そうではないと私は思う。

お金だけでは心は健全に成長しない。

例えば、水を溢れるほど植物に与えたら、多すぎる水は根腐れを起こし植物は枯れてしまうだろう。
放っておけば茎が曲がってあらぬ方向に成長してしまうこともある。

豊かな環境だとしても、正しく成長させるには手入れが必要になるものだ。

これは、お金という物質的な豊かさだけでは、人の精神は正しく育たないということに当てはめて考えることができる。

植物が健全な成長をするための”手入れ“が必要であるように、人の心が成長するには精神的な豊かさが必要になると私は考える。

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足るを知り前を向く

お金だけでものごとを測るのは危険だ。

信じられるものが物質的なものだけでは、その人はお金がなくなった途端に自分の価値を見失ってしまう。

他人を相手にするときも同様である。

お金をもっていない人は劣った人間だという考えは心を貧しくする。
目を向けるべきはその人の精神であり、人の心の良し悪しは肩書きや収入で判断できるものではない。

もちろん、その両方がよろしくない人間がいることも確かであるが、最初から決め付けていては見えるものも見えなくなってしまうではないか。

物質的な豊かさだけを求めるとキリがない。
浪費することで満足を得ようとすれば、いつまもで満足することなく浪費を続ける。
いずれは根が腐るか茎がねじ曲がって伸びてしまうだろう。

精神を豊かにするにはどうすればいいか。
それは教養を身につけることだったり、向上心を持つことや努力をすること、つまりは形のないものを糧に生きることではないだろうか?

身の丈に合うものに満足を感じ、実直に成長しようとする人は、精神的な豊かさを得ることができる。
それはお金だけあっても得られないものだ。

慎ましくも凛として咲く花は素敵なものだと私は思う。