普通の人から見れば”無能”という現実、発達障害者「何もできない」という無力感をどうやって克服すべきか!?

何もできない無能な自分に無気力感 考えかた

さて、言うまでもないことだが発達障害を持つ人に共通するのは、ある特定のことが壊滅的に苦手であり、そのせいで仕事での失敗や人間関係の不和を引き起こしてしまう。

仕事で失敗するたびに「ああ、自分はなんでこんな簡単なこともできないんだ」と嘆き、周りからも無能扱いされて職場に居づらくなってしまう。

“普通の人に比べて、圧倒的にできないことが多い”

これはもう生まれ持った『制約』とも呼べるものだ。

普通の人がゲームをプレイしている中で、私たちは○○禁止の縛りプレイを強制させられている。

この残酷な事実に追い詰められた人間の頭には、ふとこんな言葉がよぎるのだ。

「なにも得られない人生に意味はあるのか…?」

もしかしたら、自分の人生に意味はないのかもしれないという疑問。
あなたは考えたことはないだろうか?

そもそも世の中の大多数の人間が、物質的な豊かさ得ることに人生の意味があると考えている時点で、私たちは除外されているのだ。

「大企業で働いて沢山お金を稼いで欲しいものを沢山買って贅沢な暮らしをする」

これが人間の幸せだと多くの人が考える一方で、我々のような制約の中で生きる人間には、いくら望んだところで手に入らないものだ。

そもそも、私たちが外面的な豊かさを求めることに生きる意味を見出そうとすること自体が間違いなのである。

最初にも言ったが、私たちは普通のことができないのだ。

お金や地位などの外面的な豊かさを求めるのは普通の人がやることなのだ。

そんな手に入らないものを求めていては、自分の人生の意味を見落としてしまうことだろう。

私たちが求めるべきは、普通の人が求めないものであり、それはつまり、内面的な豊かさである。

これこそが、私たちの生きる意味を示してくれるものである。

とはいえ、それじゃあどうすればそんな、掴むこともできないような曖昧であやふやなものを手に入れることができるのか、私がフワッとした言葉でいくら言っても誰も納得なんてできないだろう。

だから、代わりに「これから紹介する本を読んでください」と私は説得をほっぽり投げようと思う。

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生きる意味はこの本を読んでから考えろ!

まず1冊目が『夜と霧』(著者:ヴィクトール・E・フランク)である。

この『夜と霧』という本は、心理学者のヴィクトール・フランクルが世界に悪名を轟かせた、かのアウシュビッツな強制収容所に収監されたときの生々しい実体験と共に、生と死の極限状態における人の精神を心理学的に分析したことが書かれている。

極寒の中でろくな食事や衣服も与えれず、過酷な強制労働によって次々と命を落とす仲間たち。

看守による理不尽な暴力の数々、明日の命の保証はどこにもなく、それがいつ終わるとも分からない。

絶望しか見つからないような状況下で生きる意味を見失う人々がいる一方で、しかし苦難の状況にあってなお、その中で生きる意味を見出すことのできた人たちがいたのだ。

人は何も成し遂げられないことに苦悩し、持たざる人生にその意味を見失う。

しかし、著者はそこで「意味」を見出した人間について語っている。

彼らはどうして、明日には命を落とすかもしれないという暗闇の中で、光を見失わずにいることができたのかを知ることができる。

そして2冊目が『それでも人生にイエスと言う』である。

こちらもフランクルの本なのだが、精神科医として診てきた多くの患者たちが、人生の無意味さ、虚無感を乗り越える心のプロセスについて書かれている。

夜と霧が語る内容は余りにも壮絶過ぎて別世界のように思えるかもしれないが、こちらの本はもっと身近なケースについて語られているので、どちらが直接的な助けになるかといえば「それでも人生にイエスという」の方だろう。

しかし、この本も著者であるフランクルが強制収容所での過酷な体験を元にした考え方であることから、『夜と霧』もぜひ読んでほしい。

どちらの本も「人生に意味なんてないよ」「もう私にできることなんて何もないよ」と無気力感、虚無感に苛まれ濁った魚の目に光を取り戻すきっかけを与えてくれるだろう。

「それで、君はこの局面でどうするの?」と人生に問われる

強制収容所での出来事はあまりにも残酷であり、私たちの状況とそのまま置き換えることはできないが「普通の人が持っている自由を奪われ、制約の中で生きる人」という点において、発達障害をもつ人と共通しているのではないだろうか。

もしもあなたが自分のままならない人生に絶望していたとした。

何もない人生に疑問を感じているのなら。

どうかこの本を読んで欲しい。

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