「発達障害で底辺職のつまらない人生に意味があるのか?」と悩む人に伝えたいこと

発達障害の底辺職で生きる意味がわからない 仕事

発達障害の人に共通の悩みといえば”仕事”である。

そこで問題となるのは「お金」は勿論のこと、仕事自体の「価値」についても悩む人は多いのではないだろうか?

人は生活のために働いてお金を稼がなければいけない。

しかし、その稼ぎは人によって大きな差がある。

需要のある専門的な技術を持っている人や、会社の業績に貢献できる人が高給であるのに対し、いわゆる”誰にでもできる仕事”というのは賃金も低い。

そして残念な現実だが、私たちのような発達障害の人間には、心身のどこかに欠陥があるため、高給とされるような仕事をするだけの性能がない。

だから、自分にもできる仕事を探すとなると、なるべく単純な作業や、高度なコミュニケーション能力が不要な仕事を選ばさるをえないのだ。

そうなると、最終的に残った選択肢は、最初にあげた「誰でにもできる賃金の低い仕事」になってしまうわけである。

しかし、賃金が低いということだけが問題であるならば、それに見合った慎ましい生活を送ればいいだけのことであり、苦悩するほどの問題ではない。

じゃあどうして、私たちは自分の職業に不満を感じ、ときには人生の意味にまで疑念を感じてしまうのだろうか?

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発達障害で底辺職というレッテルに苦しむ

「オレはこんな凄い仕事をしているんだ」と自分の仕事を自慢する人がいる。
「そんな仕事をしているなんて…」と人の仕事にケチをつけてくる人もいる。

悩ましいことに、仕事というのはお金を稼ぐだけではなく、その人の社会的価値までも決めてしまう性質を持っている。

それは私も身を持って経験してきたことだ。

たとえば、私がまだ自分が発達障害だと気づいていなかった頃、普通の企業で無理して働いていたせいで、仕事で失敗を繰り返し、毎日を不安と焦りの中で過ごしてきたせいで鬱になったことがある。

それからは自分の適正を考慮して、複雑な業務や、人と密接なコミュニケーションが必要な仕事は避け清掃警備の仕事をやってきた。

賃金は低い仕事だったが、私は元々あまりお金を使う生活をしていなかったので、そのせいで生活が苦しいということはなかった。

普通に暮らすだけであれば特に問題はなかったのだ。

しかし、問題はお金だけではない。

それからしばらくして、久しぶりに知人とあったときのことだ、今なんの仕事をしているのか聞かれて、私が清掃の仕事をしていると答えた瞬間、知人の顔は驚きに変わった。

「えっ、なんでそんなことしてるの?」と冷ややかな目でみられた。

別に誰に迷惑をかけてるわけでもないのに、仕事が人の社会的価値を決める瞬間である。

「清掃業」と書かれた名札を貼っている私は、知人にとって社会的価値の低い人間になったのである。

そして社会的価値の低い人を、人間性まで低く見てしまうのが人の性質である。

もちろん、世の中すべての人が職業で人の価値を決めるとは思っていないが、私が今まで出会ってきた人の大半は、私が仕事を言えば同じような反応をしてきた。

特に同年代の異性は、私の仕事を聞いた瞬間にオモシロイぐらい態度がガラッと変わる。
今までニコニコ顔で話していたのに、顔面温度がいっきに氷点下である。

つまりは、まあそういうことなのだ。

生き方が違う人は価値観が合わないから関わらないほうがよい

社会的な価値というのは仕事で判断される面があるというのは確かだ。

人は肩書きや見た目で人の内面も決めつけるものである。

例えばみすぼらしい格好をしている人がいたら、それだけで相手を「あんな格好をしている奴は底辺だ」と見下すし、実はその相手が有名企業の役職についている人だと分かったとたんに「あの有名企業に勤めてるなんてすごい!」と手のひらを返すだろう。

これに関して「そんな人を仕事だけで判断するような奴は馬鹿野郎だ!」と反論したくなるのもわかるが、大半の人間がそいういう思考なので、これはもう、人とはそういう生き物なので、しょうがないことだと割り切って考えたほうがいい。

人の価値を職業やお金だけで判断する人間に反論するのは時間の無駄であるから、そういう人と関わらないようにしたほうがいい。

無理して理解を求めようとすれば自分が嫌な思いをするだけである。

よそはよそ、うちはうちである。

自分の中の基準で幸せを判断すること

とはいえ、周りから「底辺職」だとか罵られてしまうと、自分自身も「なんで私はこんな仕事しかできないんだ、こんな人生に意味なんてあるのか?」という考えをしてしまいそうになる。

人というのは自分の幸福を、他人を基準にして考えてしまうものだ。

「あの人はこんなに稼いでいるのに…」というような考えは捨てるためには、他人の言葉は無視して、自分だけを見つめる必要がある。

特に発達障害の私たちには出来ないことが多すぎるのだから、他人にあって自分にないものを求めていてはキリがない。

自分にできる範疇で、自分の中に幸せの基準を作らなければならない。

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仕事だけが人生の価値を決めるものではないということ

多くの人は「人から羨まれるような仕事をして結果をだすことが人生の幸せ」だと考えている。

現代社会では“大企業で働いてたくさんお金を稼ぐ人”が成功者のモデルとされており、私たちの頭にもそのイメージが植えつけられているからだ。

しかし、だからといって、私たちが発達障害者がそれを追い求めたところで手に入るわけがないものだ。

だから私たちがまずやるべきは、頭の中に植えつけられた成功者モデルを消し去ることである。

真面目な人ほど「人は仕事をして結果を残さなければ人生の意味がない」と考ていると思うのだが、なにも人生で意味のあるものは仕事だけではない。

読書の好きな人が本をたくさん読むことだって意味があるし、料理が好きな人が色々なレシピに挑戦するのだって意味がある。

しかしそれを”意味のある行為”だと思えない人は「社会的に認められる行為にしか意味はない」と考えているからだ。

つまりは周りの人から認められないことに価値はないと思っているのである。

(だから仕事であっても、周りの人から認められなければ底辺職だと自分を蔑んでしまう)

その考え方自体が間違っているのだと私は考える。

あなたは仕事以外の時間を本当に有意義に使えているだろうか?

ただ何もせずにぼうっとしていたり、パチンコに行って落ちていく玉を眺めていないだろうか?

たとえ同じ底辺職とされる仕事をしていても、人生を謳歌している人もいる。

そういう人は決まって、仕事以外の時間を活動的に過ごしている。

活動的といっても、なにかハッチャケているというわけではなく、趣味であれ勉強であれ、何かしら今の自分を一歩先に進めるようなことをしているのだ。

この”一歩”の歩幅は人によって違う、周りの人からすれば、あまりにも小さな一歩で、社会的には無価値と思われるようなものかもしれない。

しかし、ここで周りから認められるかどうかというのは大した問題ではない。

あくまでも、自分を基準とした一歩なのだ。

たとえば、このブログでこうして記事を一つ書くという行為が、私にとっては一歩先に進んだことになるのだ。

なんどもいうが、他人は関係ない。

こうして記事を書いて、あなたがこの記事を読んでいるということが、私にとっての明確な前進なのだ。

私は仕事に意味を求めてはいない。

生活するためのお金が稼げらればそれでいいし、価値観の合わない人間とは付き合わない。

それでも人生に価値があると思えるのは、少なくとも、昨日の自分より一歩でも前に進んだと思えているからだ。

結果を出すとか、何かを成し遂げることはないとしても、それでもこの一歩が私に人生の価値を与えてくれるのだ。

仕事だけが人生の意味を決めるのではない。

周りの評価が行動の価値を決めるのではない。

どんな些細なことでも一歩前に進んだということ、昨日の自分より前に進んだということ、そこに意味があるのだ。

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