「自分探し」って馬鹿にするけど自分を理解することは発達障害者にとって大事なことだと思う

発達障害だからこそ自分探しは大切 考えかた

“自分探し”ってたいてい悪い意味で使われることが多い。
「自分探し(笑)」みたいな。

転職を繰り返してると「いつまで自分探しをするつもりだい?」とか、一人で旅行したら「自分探しの旅ですか?」みたいなことを言われるわけだ。

こういうの凄いモヤッとする!

こちとらそんな夢見がちな理由で転職なんかしちゃあいない。

長く働きたいけど能力的にも精神的にも無理だから、なくなく転職をしているのだ。

一人で旅行するのだって、人といるのが辛すぎるせいで人から離れたいからそうしているのだ。

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間違った「自分探し」の使われ方にイラッとする

たとえば、就職したけど仕事が向いてなくて失敗の連続だったとする。
職場の人間関係が上手くいかずに馴染めなかったとする。

そんな毎日に酷いストレスを感じているとしよう。

そうして耐えきれなくなれば「この職場は自分に合ってない」と思い転職をするわけだ

これのどこが自分探しなのだろう?

転職を繰り返す多くの人たちが探しているのは、自分なんて曖昧なものではなく、苦しまずに働ける職場を探しているのである。

「次こそは長く働きたい」と意気込んで、頑張ってみて、けれどやっぱり上手くいかなかった。

そんなことの繰り返しである。

間違っても自分を探しのために転職しているわけではないのだ。

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正しい「自分探し」とは?

「自分探し」には2種類ある。

  • 目の前の現実が嫌でそこから逃避するための「自分探し」
  • 自分を理解するための「自分探し」

逃げる理由に自分探しを使う人が多すぎて、「自分探し=甘え」みたいな認識が世間に広まっていると思う。

けれど私は、自分を理解するために自分を探すことは必要だと思っている。

このブログでは、発達障害という能力的なペナルティを背負っているからこそ、自分の適正を正しく理解することが必要であるということを、他の記事でも書いている。

それも自分探しの一つと言えなくもないが、ここで言いたい「自分探し」とは、適正よりももっと根本的な部分であり、自分でも知らない自らの「本性」を見つけることにあると思う。

自分の本性を知るための「自分探し」

誰だって自分の価値観をもっている。

人はその価値観に従って行動を決めて生きている。

けれど、果たしてその価値観は「本当に自分の意思によって創られたものなのだろうか?」と私は疑問に思う。

人の価値観は、常に「環境」の影響を受けている。

子どもであれば、親から「こうしなさい」「こうするのが正しい」と教えられるし、テレビなどのメディアでは一部の成功者を取り上げては、さも「これぞ理想の人生モデルだ」と風潮している。

「これが正しい人生だ」「こうするべきだ」「こうなったらダメだ」

環境によって刷り込まれた情報に、私たちの価値観は大きく影響され形成されてきたはずだ。

けれど、それが全ての人にとって良い結果となるだろうか?

一人でいることを好む性分の人間が「みんなでいると楽しい!」みたいな世間の言い分に従ったところで苦しむだけである。

苦しいならやめればいいのに、テンプレートモデルの情報を埋め込まれているせいで「苦しくてもこうするべきなんだ」という考え方になってしまう。

自分の中にある「こうしたい」が無視され環境によって「こうするべき」だと思い込まされているのであれば、自分の本性が無視された価値観で生きたところで苦しいだけじゃないだろうか?

私たちのような発達障害もちは、世間一般の理想モデルからは程遠い存在であるのだから、そこんとこハッキリさせないと人生辛くなるだけだ。

本性とは自分にとって真に尊ぶべきものであり、自分探しとはそれを見つける行為だと思うし、それは「ちょっと自分さがしてくるわぁ」といってすぐに見つかるものでもないと思う。

旅をしたから見つかるわけでもないし、転職すれば見つかるというものもでなく(きっかけになることもあるとは思うが)

いろいろなことを経験しながら自問自答を繰り返し探求するものではないだろうか。

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