発達障害グレーゾーンの人は「自分の異常を証明できない」ことが辛いのだ

発達障害認定されないグレーゾーは辛い 考えかた

発達障害とは本当に厄介なものである。
社会生活の妨げるとなるような症状もさることながら、軽度の発達障害の人、いわゆるグレーゾーンの人は、明らかに普通の人とは違っているのに『自分が発達障害だと証明することができない人』である。

仕事でこんなに困っている!
人間関係でこんなに辛い思いをしている!

だけど認定されなければ自分が発達障害だと証明することができず、普通の人からは「それは頑張れないことを言い訳しているだけの甘えだ」と言われる始末である。

ぱっと見たら普通の人で、仕事も普通にできるように見える、しかしある特定の条件によって自分でも気づかなかった異常が見つかる。

今まで普通の人と同じように振舞えていたのが、苦手な分野では壊滅的に不器用だったりする。

それは大人になって会社で働き始めることで、今まで許容されていた部分が認められない環境になったことで、ようやく自分がおかしいことに気づくわけだ。

そして悩んで、思いつめて「もしかしたら自分は発達障害なのでは…?」という結論に至ったというのに、いざ診断を受けたら発達障害と認定されないのだ。

人に自分の状態を説明しようとしても「証明できるのか?」と言われると、病院で障害と認められないぐらいに活動ができてしまうせいで、甘え扱いされてしまう。

本人は努力しているのに「工夫が足りない!」とか「やる気が足りない!」と理不尽なことを言われる。

実際にできないことが沢山あるのに、証明する手立てがないせいで不遇なレッテルを貼られてしまう。

まったく堪らない、実に堪らない人生である。

障害の許容値はいかほど?

もしもドラゴンボールの”スカウター”のように、障害を数値で測定できる機械があったとしたら便利なのにと思う。

普通率をパーセントで計測してくれるのだ。

そうしたらグレーゾーンの人は一体何パーセント普通なのだろう?

そもそも、100%普通な人間なんているのだろうか?

いや、きっとそんな人間いないだろう。

人に個性がある時点で、それは100%普通な人間ではない気がする。

半端にできるせいで苦しい思いをする

さて、同じ仕事をしても適応できる人とできない人がいるのは事実である。
正常と位置付けられる範囲はいかほどになるだろう。

私の適当な仮定では、普通率が「80%」以上であれば、まあ大抵のことには適応できそうなものだから、普通なのではないだろうか?(あくまで仮定なので根拠はない)

「80%」を下回るにつれて、だんだんと普通の人とは違う”挙動“が露わになってくるのだ。
そして、発達障害と認定されるのが「40%」以下の値からだと仮定したら、グレーゾーンの大人はたぶん「63%」ぐらいだと仮定する。(全部仮定である)

この微妙な普通とは言えないけど、障害と認定されることもない数値。
それがグレーゾーンではないだろうか。

ちなみにここでは数値を総合的な値として仮定しているが、実際はもっと複雑だろう。
例えば”情報処理能力”と”身体能力”の2つに分ければ、どちらかが極端に高く、もう片方が極端に低いという人もいるはずだ。
(実際はもっと細く分類されなければ正確な数値は測れないだろう)

これにより、総合した数値は同じでも、人によって特性に違いが出てくる。
職業によって必要な適正数値の種類も違うので、例えば身体力の数値が高ければ情報処理能力の数値が低くても適応できることもある。

個性と障害の境界

個性で済ませられることと、個性じゃ済まない問題。
これって子供の頃からなんとなく意識してきたことじゃないだろうか。

  • あの子はスポーツが苦手
  • あの子はちょっとぼんやりしている
  • あの子は落ち着きがない
  • あの子は忘れっぽい
  • あの子は周りの空気が読めない
  • あの子は癇癪をおこしやすい
  • あの子は不器用だ
  • あの子は方向音痴だ

そんなふうに言われたことがあるし、思ったことがあるはずだ。
これを個性として見るか、障害として見るか、その判断はどこでするべきだろう。

医者に障害だと言われたときだろうか?
仕事に障害をきたしたときだろうか?
人との関係に溝を作ったときだろうか?

私は「自分が障害と認めたとき」だと思う。

医者が認定しようとしまいと、実際に、できないことが沢山あって、それで仕事や人間関係で苦労していて、自分ではもうどうしようもないなら、それはもう障害じゃないか。

なんで自分の障害を他人に認めてもらわにゃならんのだ、そんなのおかしいじゃないか!

発達障害を証明する意味

そもそも大人の発達障害というのは検査するだけでも大変だ。

仮に「あなたは間違いなく発達障害ですよ」と太鼓判をもらったところで、それじゃあ誰かが助けてくれるかといえば、そんなことはない。

そりゃあクローズの仕事とか障害保険とかはあるけれど、変わらずに生きずらい状態は続くし、周囲の普通の人たちが本当に理解してくれるなんて思えない。

認定されようがされまいが「できないことが許されない社会」で私たちが生き続けることに変わりはない。

というか別に、誰かに助けて欲しいわけじゃないのだ。

むしろ他人に触れてほしくなんてない。

認定されようがされまいが、自分にできることをやって生きていくしかないのだ。

自分にしか理解できない悩み

一口に発達障害といってたところで、症状も取り巻く環境も、人によってぜんぜん違うのだから、全員が同じ考えにはならない。

だから私は自分の感覚でしか物を言えない。

私よりも辛い思いをしている人はおそらく沢山いる、その人達からしたら、私の言ってることなど「その程度のことで甘えるな!」と思われるだろう。

まったく健康で万事問題ない人からすれば、「こいつは何をいってるんだ?」としか受け取られないのだろう。

たとえお医者の先生が、障害や症状に詳しくて、本人の気持ちを推測するのに長けていたとしても同じだ。

どんなに賢い人であっても、自分と違うものを共感することはできないのだ。

自分で感じたことのない感情を本人と同じように感じることはできない。

他人に理解を求めても救われない

結論から言えば、私は他人に自分を自分を理解してもらおうとすることをやめた。

「どうすればこの辛い気持ちを理解してもらえるんだ!?」ではなく

「この苦しみは他人が理解できるものではないのだ」と他人に求めることを止めたのだ。

考えるべきは、今の自分がどうすれば一歩でも先に進めるのかだけである。

自分だけが自分が苦しみながら頑張っていることを理解できるのだ。

自分さえ理解していればそれでいいのだ。

周りの誰にも理解されずとも、自分が頑張っていることを、小さくとも前に向かって歩いていることを、自分が認めてやるのだ。

他人からどう思われようが、自分自身が頑張っていると認められるなら、それで十分なのである。

自己の超越、唯一それだけが私たちを救える行為ではないだろうか?