よく、仕事が辛すぎて辞めてしまった人を「根性なし」と罵る人がいる。
確かにそういう部分もあるのかもしれないが、仕事のストレス許容量は人によって違うということも忘れてはいけない。
例えば「残業が多くて長時間労働についていけずに辞めた」という人がいたとしよう。
それを、激務な職場でバリバリ働いている人が聞けば全く共感されずに「なに甘っちょろいこといってんだ、こっちは徹夜なんて当たりまえなんだ!」と思うだろう。
こうしたしょうもない言い争いが起きるのは、どちらの言い分が正しいかで判断しようとするからである。
体力には個人差があり、睡眠時間だって人によっては「3時間寝れば平気」という人もいれば(私の知り合いにこのタイプがいるが、電車の中で仮眠をとるだけで十分らしい)
1日7時間以上は寝ないと辛いという人もいる。
なので、仕事自体を基準として、辛さを測るのは論点がずれているのだ。
肝心なのは、当人を基準とすることであり、それゆえに感じ方は相対的であり、全員が辛いと思うしごとや、全員が楽だと思う仕事なんてのは存在しないのである。
とりわけ、発達障害者は普通の人と比べてその差が顕著である。
これは根性でどうにかなる問題ではなく、持って生まれた個体差なのだ。
体力と同様にストレスに対する耐久力だって個人差がある、その前提を無視して、全員が同じように働きながら生きるなんてのは、はなから無理な話である。
結局最後は、それに適応できる人だけが残るのだ。
それなのに「周りの人たちは平気なんだから、自分も頑張らないと」と無理をしてしまった人は過労や心労で潰れてしまう。
無理なときは潰れる前に逃げろ!
この社会において、発達障害をもつ私たちは、普通の人たちと比べて弱い存在である。
仕事や人間関係で、いつも躓いてしまう。
バリバリ仕事をして成果を出し続けているような人と同じような生き方はできないだろう。
だったら、違う生き方を身につけなければ先はないではないか?
普通の人たちが、自らの力で状況を切り開きながら生きるのならば、私たちは状況を受け入れることで柔軟に生きればいいのだ。
例えば、目の前に困難が立ちはだかったとしよう。
普通の人は、困難を打破することで解決しようとする。
それは彼らにはその力があるからだ。
では私たちはどうだ?
困難を打破する力なんて持ってないけど、その場で立ち止まり続ける訳にはいかない。
それらな私たちは困難を避けて別の方向に進めばいいのだ。
普通の人たちはそれを「逃げ」だと避難するだろう。
しかし、発達障害の私たちにとって、そうすることが状況を切り抜ける手段なのだ。
次へ繋げるために逃げる
私たち発達さんの人生は、理不尽な困難の連続である。
別に好きでこんなふうに生まれた訳じゃないというのに、多くの困難が立ちふさがってくる。
そんなとき、困難に立ち向かうだけが正しい選択ではないと私は思う。
ときには逃げることが最善策の場合もあるのだ。
「逃げる」と聞くと、諦めることや投げやりになることだと思ってしまうかもしれないが、ここで言うところの逃げるとは、状況を受け入れ次の機会に繋げることである。
挑戦したけど駄目そうなら逃げていいのだ。
挑戦は何度してもよいのだ。
むしろ、一度の挑戦に「自分にはもうこれしか残された道はない」と全てを賭けると、失敗しときに「自分にはもう他に選択肢なんかない」と絶望してしまう。
無理して鬱にでもなってしまえば、次の挑戦ができなくなってしまう。
倒れない限り終わりではないのだ。
だから次に繋げるために逃げるのである。
のんびりすることを忘れない
私たちはいつも不安と焦りに後ろから追いかけられている。
なにもせずに怠けてなんていられないと思うかもしれないが、ダメなときには何をやってもダメなものである。
嵐の日に無理をして船を出せば難破するのと同じである。
そういうときは嵐が止むまで待つのが得策だ。
ダメなときは休んでいいのである。
自分を追い詰めることでやる気を出そうとする人もいるだろうが、辛い状況では効果的とは言えない。
状況によって「やるとき」と「やらないとき」をしっかり見極めるのが大切である。
辛い状況であるなら、なおさらだ。
真面目な人ほど追い詰められて焦ったり、部屋に閉じこもって悩んでいるときは、視野が狭くなり、思考が同じことをグルグルと考え続けてしまう。
ときには何も考えずに自然の中をぶらぶらと散歩したりしたほうがよろしい。
柔らかく生きよう
私たち発達障害者は辛いことを全部受け止められるほど強くできてはいないのだ。
しかし、だからといって人生に悲観し、自尊心を失って生きるのなんてゴメンである。
強く硬く生きられないなら、気を抜いて柔らかく生きようじゃないか。
普通の人たちと同じように生きようとして、無理して気を張っているよりも、弱い自分を受け入れて生きたほうが良いと私は思う。
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