わたしパーソナリティ障害だけどいい人の演技が上手すぎて内心とのギャップが酷い

いい人の演技で人間関係をつくる 人間関係

私は他人が嫌いでしょうがなく、近くに人がいるだけでイライラするパーソナリティ障害者だが、いい人のふりをするのがとても上手い。

私の人間関係はほぼ全てが演技だと言っても過言ではないだろう。

いきなりこんなことを書くのはどうかと思うが、人は多かれ少なかれ、他人に対して演じた自分を見せながら生きているわけで、あなたもそうだろう?

素の自分をさらけ出しながら生きていけるほど、世の中は寛容ではないのだ。

中には、ありのままで人に好かれてしまう天然人格者もいるが、私のような屈折した人生を送ったことで精神が歪んでしまった人間には、素の状態でまともな人間関係を構築するなんて土台無理な話である。

仮に私が素の自分をさらけ出して生きたとしたら、出会って3秒で相手を不愉快な気持ちにさせる自信がある!

いやほんとうに。

そして、私のように、自分がそういう人間だと自覚している人は、処世術のために自然と演じることを身につけてきたはずだ。

(というか身につけなければ社会で生きていけない)

しかし、私は最近こう思う「いい加減、演じながら生きるのもしんどいなぁ!」とね。

「演技の自分」と「本当の自分」のギャップが辛い

自慢じゃないが、私の演技はなかなかどうして大したものなのだ。

優しい笑み、優しい口調、謙虚な姿勢(単に自分に自信がないだけとも言える)

まあ大体の人は「優しそうな人」という第一印象を持つだろうこと間違いなし!

しかし内心では常にイラつき心の中で暴言を吐きまくっている。

本当に口汚い。自分で自分に引くレベルで罵詈雑言が飛び交っている。

というか、最近じゃあ気を抜いたら独り言で暴言吐いちゃってるのでヤバイ。

誰もいない場所だと、とついつい汚い言葉が口から漏れてしまっている。

実は近くに人がいた時なんて、聞かれたんじゃないかと思って冷や冷やものである。

なんでこんなに暗黒面が肥大化しちゃったの?

なんでここまで表と裏にギャップができてしまうのか考えてみて、思い当たった原因は「表の自分は演技が過剰すぎるから」ということだ。

心の内を他人に悟られないよう、演技を過剰にしすぎたせいで、全く本心を言うことができないのが良くないのではないだろうか?

不満を押さえ込み過ぎた

「あなたは全然おこらないですよね? なんで怒らないんですか?」

と言われたことがある。

いやもう、それを言われた時点で内心では『そんなん我慢してるからにきまってんだろうがっ!』と激怒しているのだが、結局それを表に出すことはなかった。

それがいかんのだろうと思う。

考えてみれば、職場でもあっても、周りの人は割と不満を表に出している。

ドカン!と爆発するわけではなく、小さく小出しに不満を漏らしている感じだ。

他人に受け止めてもらえる程度の小さな不満を表に出しているのだ。

私はそれができない。
普通の怒り方なんてもうわからないのだ。

私が怒りを表に出すとき、それは、プッツンしたときである。
イチかゼロである。

今まで押さえつけていたものが全部噴出するのだ。圧迫されていただけに、その勢いは凄まじい。

そうなるともう収集がつかない。

私も開きなおって「もうこんな茶番は終わりじゃあああ!」と、いっそ全てをぶっこわしてやろう的なノリになってしまう。

その結果、人間関係は崩壊する。

どうせ本音を言っても受け入れられないだろ?

人間社会には行動の規範が設定されている。

もちろん法律ではないから、それに従わなくても法で裁かれることはない。

それならばと、何も気にせず自分の思うがままに振舞えばどうなるだろうか。

人格に難ありと評価され、周囲から迫害されるだろう。

ときには精神的な嫌がらせ、ときには暴力を伴った攻撃。

法による罰ではなく、人が感情によって人を裁こうとするのだ。

つまり、空気を読めない人間は社会的にリンチされるのである。

空気が読めない人への攻撃

私にとって、人と一緒にいるというのは苦痛である。

なぜなら、他人は嘘をつくことを私に強要するからだ。

嫌いなものを好きだと言わされる。

悲しくないことを悲しいと言わされる。

私は嘘をつくのが嫌いなのだ。
心にもないことを言ったり振舞うことの苦痛といったらない。

だから嫌いなものは嫌いと言うし、興味がないものには興味がない言う。

その結果、多くの人は私のことを「冷酷だ!」「冷徹だ!」「人間じゃねえ!」と言うだろうが、私にしてみれば「冷酷なのはお前らの方だ!」である。

考えてみほてしい。どんなに真面目に頑張って生きていたとしても、親の葬式で悲しめなければクズ扱いである。

その人が今までどんな人生を歩んできたのか、どうしてそう思うのか、そんなことは一切関係ない。

その人の感情を無視して、ただ規範となる行動から外れた人は迫害される。

空気を読めないやつはどれだけ精一杯生きていても認められない人間社会。

それを是とする人々のほうが、私なんかよりよっぽど冷酷ではないだろうか?

ワガママなのは私ではなくお前らだ的なスタンスで

そんなわけで、日々苦痛を味わいながらも、私は演技をしながら生き延びているわけである。

私はなんて健気なんだろう!

しかし、そこにきて、またもや冷酷人間達は私をいじめてくるのである。

ちょろっと演技するのをやめて本心を見せてしまうと「そんな人だとは思わなかった!」と、私のことを嘘つき呼ばわりしてくるのだ。

マジがっでむ!である。

言い掛かりも甚だしい。

別に私は好きで演技をしていたわけではない。
社会で生き延びるために演技することを強制されていたにすぎない。

最初から本心だけで生きていけるならそうしている。
でもそうしたら、私は迫害されるだろう?
それはで生きていけないのだ。

強要されて苦痛を我慢しながら演技をしていたというのに、いざ本心を知ったときに失望するなんて、それこそ自分勝手も甚だしい。

演義を強要したのはお前らのほうじゃないか。何をいまさらである。

全くワガママな人間どもめ!

相手を信用できないと演技はやめられない

ここで一番の問題となるのが、相手を信用できないということだ。

私なんて、紆余曲折した人生を送ってきたせいで、基本的に他人は信用しないスタンスになってしまったため

「どうせ素を出したら引くんだろ?」

みたいに、最初から相手に自分の素を見せる気がないのである。

つまり、自分の本心を見せられるほど人を信用できないのだ

他人を信用?

うん、無理だ(確信)

いやさ、長い年月でこじらせ過ぎた私の性格は、もう人様に見せられるようなものではなくなっているのだ。

結論:私には無理だが…あなたはどうだろう?

すでに私の中にある一番の安らぎ方法は「できるだけ人と関わらないこと」で決定しているので、これに共感できちゃう人には、素の自分で他人と付き合うのは難しいと思われる。

が「自分はまだそこまで歪んでない!」と思える人にはまだ望みがある。

私が言える確かなことは、自分を隠したまま、相手に素の自分を理解して欲しいと願っても、そんなエスパーみたいな人は永久に現れないということだけである。

けっきょく、傷つくの覚悟でカミングアウトするしかないのだろう。

ああ、おっかないおっかない。

私には無理だなぁ。

私が人間嫌いである理由の一つに「演技を強要される」といものがある。

いわゆる「空気を読んで」というやつだ。

もちろん、素の感情だけで振舞っていたら、人間関係の構築などできないので、そこはある程度必要なものだと理解ができる。

仕事でお客相手には笑顔で対応したり、職場では愛想よく振舞ったり。

本当は内心反吐が出そうになりながらも、ビジネスだからと堪えることができる。

(あまりにモンスターな相手だとそうもいかなくなるが…)

しかし、仕事相手ならともかく、私生活においても、人から演義することを強要される。

  • 嫌いな人の葬式でも悲しんでるふりをしなければロクでもない人間だと言われる。
  • 嬉しくもないプレゼントをもらっても喜んだふりをしなければ酷い奴だと言われる。
  • 興味のない人でも病気になったら心配しているふりをしなければ冷たい人間だと言われる。

逆に言えば、内心ではどう思っていいようが、演義さえできれば、その人は周囲から「良い人」と認識される。

どんな人間かを判断するのに、内面や本質は考慮されない。

重要なのは「そう見えること」なのである。

けど、私は別良い人と思われることになんの喜びも感じないから、苛立ちを抱えたまま演技を続けなくてはいかない。

演技を続けて社会に紛れ込むか、演技をやめてドロップアウトするかの2択しかないのだ。

ああ生きづらい生きづらい。

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