発達障害は「当たり前ができない」ということを周りの人から理解されないことが辛い

当たり前ができない理解されない発達障害 考えかた

発達障害の悩ましいところは、普通の人から理解されないということだ。

職場では「どうしてそんなミスをするんだ!?」と上司から怒られるのし、日常生活でさえ、家族や友人からも「どうしてそんなミスするの!?」と言われてしまう。

そう言われるたびに、私はもどかしさを感じる。

だって、できないことに理由なんてないのだから、説明のしようがないのだ。

普通の人にとって、当たり前にできることだから、できないことに理由がなければ納得できないのだろう。

なんで忘れたの?
どうしてできないの?

この質問にはうんざりである。

私たちにとっては、できないことが当たり前なのだ。
そこに理由なんて存在しないのである。

忘れたから忘れたのだし、できないからできないのだ。

だから私たちの悩みは普通の人には理解されず、この無意味なやりとりをいつまでも繰り返えさなければならない。

私にはそれがとても辛い。

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当たり前のことができない絶望感

難しいことができないの割と簡単に諦めがつく。
だって普通の人もできないのだから。

しかし、簡単なことができないのは、本当に辛い。

普通の人が意識せず、当たり前のようにやっている隣で、発達障害をもつ人は努力と工夫でなんとかやっている。

いつだって気が抜けない。
ちょっと気を抜いたら、すぐに失敗してしまうからだ。

いちど覚えたことでも、ちょっとイレギュラーが発生して手順が変わってしまったらもう大変だ。

いつもギリギリでやっているのに、柔軟に対応なんてできるわけもない。

その瞬間に頭はフリーズしてしまう。

機転をきかせろ? マニュアルだけに頼るな?

それができるなら、最初からそうしとるんじゃ!
と言いたくなるわけだ。

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小さな痛みが延々と続けば、いつかは耐えられなくなる

人が落ち込んだり悩んだりするのは、何かに失敗したときだ。

そりゃあ、大きな失敗をしたら誰だってショックで落ち込むものだが、それより危険だと思うのが「小さミス」「些細な失敗」といった、一見すると大したことないような出来事こそ、心に深刻なダメージを与えるものだと私は思う。

なぜ、大したことない失敗が危険かといえば、それが「大したことのない出来事」であるからなのだ。

普通の人が「次から気をつけよう」で済む問題だとしても。

発達障害をもつ人にとっては、普通に気をつけることができないのだ。

小さな、ほんの些細な失敗だとしても、本人は必死にやっている。

必死であるにも関わらず、些細な失敗をしてしまう。

この辛さが、普通の人には理解できないのだ。

大きな失敗が、ボカンッ!とぶん殴られる感じだとすれば、小さいな失敗はゴツッと殴られる感じだ。

ゴツッ

我慢できない痛みではない。

しかしこれがずっと続くのだ。

毎日なにかしら小さな失敗をする。そのたびに繰り返し痛みを感じる。

ゴツッ、ゴツッ、ゴツッ、ゴツッ、ゴツッ……

最初はそれでも平気だったけど、蓄積されていくダメージに、やがて心が悲鳴をあげる。

危険のは、繰り返されることに慣れてしまうことで、痛みに鈍くなってしまうことだ。

小さな痛みが、じわりじわりと心を蝕んで深刻な状態になっていたとしても、なんかもうわからなくなってしまう。

小さなこと亀裂を軽くみてはいけない。

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自分に優しくしてやってもよい

言って簡単にできることじゃないのは重々承知なのだが、頑張らないことも、ときには必要なのだと思う。

根が真面目な人ほど、できない自分に我慢ができず、自分を追い込んでしまう。
(私はネガティブなだけで真面目な人間ではないのだが)

もちろん、努力をするのは必要なことだと思うが、周りの人よりも自分がいちばん自分自身を責めているようなら、そこは少し気を抜いてもいいのではなかろうか?

できない自分を周りに見られるのは恥ずかしい。

周りから呆れられるのも、そりゃあ嫌だ。

しかしね、必死にやってるけどできない辛さってのは、自分にしかわからないことなんだから、せめて自分には「お前はよくやってるよ、あんま無理しなくていいよ」と優しくしてあげてもいいんじゃないかと思うわけだ。

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